ミサイル事件後の経過

 

2011219日 日本中にミサイルが降り注いだ"あの日"

豊洲のショッピングモールには機動隊が突入してきて、ドバイから帰国した2万人のニートと「東のエデン」のみんなは拘束された。人の波にのまれ、滝沢君と私は離ればなれになってしまった……。

活動履歴によれば、滝沢君はその日の夕方、JUIZによって"飯沼朗"という新しい経歴を用意され、姿を消したらしい。

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滝沢君が警察の取り調べを受けた記録は消されていた。

JUIZによって、滝沢君が存在した記録は次々に消えていったのだった。

 

2011222日 "あの日"から3日後

私は警察の事情聴取を終え、自宅に戻った。

私に託されたノブレス携帯には、滝沢君のメッセージが残されていた。

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事件後、ミサイルは迎撃したが、その残骸が各地に降り注いだ。

死傷者こそ出なかったものの、前代未聞のミサイル事件は連日メディアで取りざたされていた。

 

20113月 この国は大きな転機を迎えつつあった

たしかにミサイルは落ちなかったが、ミサイルが落ちた以上のダメージをこの国は受けたのだ。

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政府は認めようとしなかったが、60発のミサイルも、それを撃ち落としたミサイルも、自国のものであることは自明だった。

「自殺した国家」として、日本の国際的地位は失墜した……。

国内の情勢は不安定になり、株価は暴落、企業は次々と買収され、倒産し、そして日本経済は未曾有の危機に直面していた。

 

20114月 東のエデン、起業

ミサイルを迎撃する滝沢君の画像は"エデンサイト"が情報源となって世界中を駆け巡った。

そのうち滝沢君のはアイコン化し"AIR KING"のロゴと共に若者たちの支持を集めている。

それを着に『東のエデン』を会社として起業した。

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ミサイル事件後の経済的苦境の中、なり手のいなかった新たな総理大臣には、

首相経験のあった古株の飯沼誠次朗が火中の栗を拾うべく立ち上がった。

 

20115月 楽観主義の蔓延

"あの日"以来、若者たちが漠然と抱いていた"不安"は、ある種の期待感に変わったのだった……。

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高度経済成長もバブルも知らない若者たちにとって、

明日この国がどうなるかもわからないという気分すら新鮮だった。